願成寺および武田信義墓
最終更新日:2016年2月22日
去る1月16日に開催された「シロキチ☆ツアーズ」では西股総生先生の案内で埼玉県小川町の中城と腰越城を見てきたのですが、その続編で新府城をやるということで今回も参加することにしました。
西股先生のアシスタントは前回同様、ライターのいなもとかおりさんが務めますが、いなもとさんと本企画のシロキチさんは先日、私の所属している「NPO法人 滝山城跡群・自然と歴史を守る会」で行っている滝山城の下草刈りにも援軍として参陣していただき、普段は男だけの現場のところに女の子たちが来たものだから、もうおじちゃんたちの張り切り様は凄まじく、いつもの倍くらい捗ったという・・・、あれ、まったく関係ない話でスミマセン。
さて、シロキチツアー自体はスタートが13時でしたので、今回一緒に行く滝山の会の生源寺さんと、早めに出掛けて午前中も何か見ようとあらかじめ話していました。
そうしたところ、シロキチさんから生源寺さんに「白山城に行くのなら一緒に行きたい」と打診があり、私も白山城へは行ったことが無かったので、午前中の探訪は白山城に決め、シロキチさんとは9時半に白山城の麓にある武田八幡神社で待ち合わせることに決めました。
しかしながら、天気予報では雨となっており、それだけが心配で当日を迎えたのです。
願成寺諸元
| ふりがな | がんじょうじ |
|---|---|
| 別名 | |
| 住所 | 山梨県韮崎市神山町鍋山1111 |
| 交通 | |
| 史跡指定 | 国指定重要文化財 木造阿弥陀如来及び両脇侍像 韮崎市指定文化財 五輪塔・阿弥陀三尊像・山号額銅鐘 |
| 宗派 | 曹洞宗 |
| 山号 | 鳳凰山 |
| 本尊 | 阿弥陀如来 |
| 創建 | 宝亀2年(771) |
| 開山・開基 | 開山:権大僧都心休了愚法印 |
第1回 探訪記録
| 探訪年月日 | 2016年2月20日(土) |
|---|---|
| 天候 | 曇り |
| 同道者 | 生源寺さん |
| 探訪ルート | 願成寺および武田信義墓 → 武田八幡神社 → 為朝神社 → 白山城 → 能見城 → 御名方神社堀 → 西城 → 新府城 |
図らずも武田氏祖信義の墓と出会う
7時に高尾駅まで生源寺さんが車で迎えに来てくれたので、食料を買い込むと早速出発です。
高尾山口ICから圏央道に入るとすぐに八王子JCTに着きます。
写真1 八王子JCTを通過!
時刻は7時17分、ここからは中央高速で一路韮崎を目指しましょう。
高速道路はまったく渋滞が無く、車はスムーズに進み、あっという間に特徴的な鏡石を露出させている大月の岩殿城の前を通過します。
今日は曇りですが、ここからは綺麗な富士山が見えますね。
車はさらに進み、あっという間に甲府市街の南側を通過、生源寺さんに「サービスエリアで休憩しましょうか」と話していると、もう次は韮崎ICということです。
写真2 韮崎ICに到着!
休む暇なく着いちゃいました。
時刻は8時17分、八王子JCTからちょうど1時間ですね。
インターを降りてすぐのところにあるローソンで休憩です。
遠くには特徴的な山並みが見えます。
写真3 遠くの山並み
ローソンの駐車場の観光案内板によると、遠くの山並みの一番右側に孤立している山が甲斐駒ヶ岳で、その左側に3つ並んでいるピークが右から地蔵ヶ岳、観音ヶ岳、薬師岳です。
観音とか薬師とか、すごく修験の香りがしますね。
シロキチさんとの待ち合わせは9時半なので、まだまだ時間があります。
観光案内板を眺めていると願成寺(がんじょうじ)というお寺に武田氏の祖信義の墓があるそうです。
実は今日は予習なしでこの地にやってきました。
でもきっと何か見るところがあるに違いないと思い、出発時間を早めておいたのです。
それじゃあ、願成寺に行ってみようじゃないですか。
下道を走りだしてすぐ前方に富士山が見えました。
写真4 隠れる富士山
でもほとんど全体が雲に覆われていますね。
車窓の左手には河岸段丘のようなものが見えますが、七里岩です。
写真5 七里岩
8時45分に願成寺に到着。
写真6 願成寺
異様な山容の八ヶ岳が見えますね。
写真7 八ヶ岳
こちらの山の名前は分かりません。
写真8 北東方面の山々
では寺域に入ります。
お、眩い白木の新しそうな本堂。
写真9 願成寺本堂
説明板によると願成寺は元々は権大僧都心休了愚法印というお坊さんが宝亀2年(771)にこの地に草庵を結んだのが始まりだそうです。
私の手元に詳しい資料がなくて、Webで権大僧都心休了愚法印を検索してもこの願成寺に関する記事以外にはまったく出てきません。
私の理解不足なだけかもしれませんが、『角川日本史辞典 第二版』を読むと、法印というのは「法印大和尚位」というのが正式名称で、僧位の最上位になり、しかもそれが定められたのが貞観6年(864)なので、宝亀2年に法印と呼ばれる僧はいたのか良く分かりません。
ちなみに貞観6年には僧綱(そうごう)の相当位が定められたのですが、僧正は法印大和尚位、僧都は法眼和尚位、律師は法橋上人位とされ、心休了愚は「権大僧都」ですので、法印でなく法眼じゃないでしょうか。
でも「大」が付いているから特別なのか、そもそも貞観6年に定められる前の話なので、それ以前の制度に、「権大僧都」で、かつ「法印」というのが存在したのでしょうか。
うーん、分からない!
仏教関係の知識は乏しいし、手元に資料もないので今日はこれ以上は詮索しません。
宝亀2年というのはあまりにも古い感じもしますが、その後、武田氏の祖とされる信義が祈願寺として中興し、さらに時代が下って戦国期には武田信虎の甥である俊虎和尚が住職を務めていたときに臨済宗に改宗し、江戸期の寛永15年(1638)には曹洞宗に改宗して現在に至ります。
境内には韮崎市指定文化財の武田信義の墓があります。
写真10 韮崎市指定文化財 武田信義墓
生源寺さんと「この五輪塔、でかいですねえ」と言いつつ手を合わせます。
写真11 武田信義の五輪塔
ここで武田信義について、『甲斐武田一族』を元に簡単にまとめてみます。
武田家の祖とされる信義は、実は甲斐の生まれではなく、常陸(茨城県)の生まれなのです。
なぜ常陸で生まれたのかというと、どういう経緯があったのかは分かりませんが、京都出身の祖父義清が常陸国勝田郡武田郷(茨城県勝田市武田)に入部し、武田冠者と称していました。
源頼義 ―+― 八幡太郎義家 ――― 為義 ―+― 頼朝(鎌倉幕府創始)
| |
+― 賀茂次郎義綱 +― 為朝
|
+― 新羅三郎義光 ―+― 義業 ――― 昌義(常陸佐竹氏祖)
|
+― 義清 ――― 清光 ― 信義
さらにその父である義光は、奥羽で戦われた「後三年の役」(1083〜87)の際に苦境に立った兄義家を救うために、都での官職を擲って私兵を率いて馳せ参じたことで有名で、義光が着用していたとされる「楯無」の鎧は、「御旗」とともに武田家の家宝として伝わり、映画やテレヴィなどで武田信玄が軍議を開く際には、その後ろに祀られており、約束事は御旗楯無に誓約します。
義光は北杜市にある若神子城に居城したという伝承がありますが、史料では確認できず、甲斐国内にはやたらに武田家に繋げる伝承地が多いことから、おそらくこれは後世の付会でしょう。
なお、義清の兄義業も常陸国内に入部しており、吉田郡の吉田清幹の女と婚姻し、生まれた昌義は、後の戦国時代に有名になる常陸佐竹氏の祖となっています。
信義の父清光は義清が常陸にいるときに生まれた子なのですが、この清光が大治5年(1130)に乱暴を働き、国司から義清共々中央に訴えられてしまい、父子は翌年甲斐国市川荘へ配流されてしまいました。
つまり、信義のお父さんとお祖父さんは、罪人となって山梨県にやってきたわけです。
このとき、天永元年(1110)生まれの清光は22歳なので、それはそれはエネルギーが有り余っているやんちゃな若者だった様子が想像できます。
そして清光にはすでに二人の幼子がいて、それが大治3年(1128)生まれの光長と信義で、二人は一説には双子と言われています。
つまり幼児の信義からすると、お祖父さん、お父さん、そしてお兄さん含めた一族とともに山梨に島流しにされてしまったわけですね。
ところで、こういう流刑の話は結構あるのですが、興味深いのは流刑にあった人が流された先で権力者になることがあることです。
義清と清光は甲斐で「マイナス」からのスタートだったはずなのに、その後はむしろ「プラス」に転じるわけですから、人生とは面白いものです。
一般的な例では、「貴種」と呼ばれる血筋の良い人(この場合は、新羅三郎義光の子と孫なので血筋はバッチリ)は、地方に行くとその地の有力者の娘を嫁にします。
地方の有力者も中央と繋がりのある「貴種」を自分の家に取り込みたいですし、また貴種の方でも地方で力を得たいわけですから両者の利害は一致するわけですね。
甲斐にやってきた後の父子の活動は良く分かっていないのですが、罪人であったはずが荘園の現地責任者にのし上がったようなのです。
荘園の現地責任者はある程度腕力がある人物の方が良いので、「高貴な乱暴者」である父子はその役にうってつけだったわけです。
清光はその後、北巨摩郡域に進出し、逸見郷を本拠と定め、「逸見冠者」と称します。
義清は「武田冠者」、その子清光は「逸見冠者」、両者とも自身の本拠地の地名を名乗っています。
ちなみに「冠者」というのは「若者」程度の意味で、特別な権威や重みはありません。
つまり、「俺様は逸見の若者だ!」と宣言しており、それは別の角度からみれば「逸見は俺様の土地だ!」と言っているわけです。
武士は自己主張が強いのです。
清光は長男の光長に本拠地である逸見を継がせ、その系統は逸見氏となり、一方、信義は武田八幡神社で元服式を挙げたとの伝承があり、武河牧や甘利荘方面(韮崎市域)に分派して地盤としたようです。
そしてその頃に願成寺が中興されたわけですね。
信義は次男でしたがその力は兄光長を凌ぎ、治承4年(1180)8月17日に源頼朝が挙兵すると、信義率いる甲斐源氏は当初は頼朝に同調せず、独自に軍事行動を起こしますが、それが頼朝にとっても非常に好都合な展開となり、結局は政治力で頼朝に叶わず、鎌倉に出仕して幕府の一員となります。
ただし、その後は目立った活躍は無く、『吾妻鏡』からも建久5年(1194)11月を最後に姿を現さなくなります。
この年の8月には信義の子・安田義定が「逆心あり」とされて族滅させられており、甲斐源氏は大きく力を減じ、それに伴って信義も歴史の表舞台から姿を消すことになったのでしょう。
信義の正確な没年は分かっていません。
我々は駐車場から登るときに正規の入口から入らなかったようで、帰りは山門をくぐっていきます。
写真12 山門
武田菱が眩しい、趣のある門ですね。
正面からもう一枚。
写真13 山門
では、シロキチさんとの待ち合わせ場所である武田八幡神社へ向かいましょうか。
【参考資料】
- 現地説明板
- 『角川日本史辞典 第二版』 高柳光寿・竹内理三/編 1974年
- 『甲斐武田一族』 柴辻俊六/著 2005年
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